コペルくん的読書日記

誰かと本の感想を語り合いたい寂しめなコペルくんです

竜馬がゆく(二)(司馬遼太郎、1998)★★★★★ー0006

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人の命は短いわい。わしに、なんぞ大仕事をさせてくれんかネヤ

 幕末の奇蹟といわれた風雲児坂本竜馬の劇的な生涯を中心に、同じ時代をひたむきに生きた若者たちを描いていた青春群青、昨日に引き続き第二巻です。

 これも昨日と同様「かっこよく生きるためにはどうすればいい?」というヒントを探すべく読みました。

①男の美しさとは
②社会のために自分はどうあるべきか
③自分の体験を通して考えられているか


①男の美しさとは

男にも美しさがある。みずからの考えに対して、死を賭しても頑固だということだ

男なら、いったん決心したことは、とやかくいわずにやりとげるものです

この当時の武士は、いまのわれわれの市民諸氏ではない。武士である。武士が「やる」というのは、命を捨てる、ということだ。腹を切れといえば松木はこの場で立腹でも切るだろう。

 本書を通じて一番感じるポイントはこれです。自分が決めたことに文字通りに「命を賭けることができるか」、そういう覚悟を持っているか。ちなみに文中で筆者は、このエネルギーが明治維新という大史劇を展開させたとコメントされております。

 身の回りを見渡してみると、今を生きている人の中でこういった意味で覚悟を持っている人をなかなかおりません(その中でも特に自分)。単純にこの点だけで見ますと、その時代に生きる人がいかに自分の哲学やそれに基づく決断に重きを置いているのか、その異常さを感じずにはいられませんでした。「なんてかっこいいのだろう」素直にそう感じました。何故そのような感じを受けるかわかりませんが、これをかっこいいと感じることが出来るのをまずは誇らしく思えました。

 とはいえ、それを自分で体現しないことには何も始まりません。以前少し働いていたときに「コミット」という言葉をたくさん耳にしました。それはまさしく上のような「やりとげる覚悟」のことだと思います。そういう精神を持った尊敬できる上司が多くいて、今更ながら「そうか、そういうところをかっこいいと感じていたのか」とようやく解した次第です。とはいえ、そういう環境だったとしてもこの「コミット」がどのくらいの覚悟のレベルをいっているのか、当たり前ですが人によって全然違います。少なくとも僕の「コミット」は甘かった。何故そう言えるかというと、それを「コミット」してやり遂げようとすることに関して美学を感じていなかったからです。定義が出来ていなかったのです。上辺だけでこの言葉を借用していたにすぎませんでした。

 だから今後この使うときは要注意です。なにせ命が懸かっているのですから。笑 その代わり「コミット」したことは本当にやり抜く。誰がなんと言おうとやり抜く。そういう美学を持って、今後生を全うしていきたいと思います。このような覚悟の美学こそが男を美しくしてくれるのだ信じております。

 

②社会のために自分はどうあるべきか

やはり強かったのは宮本武蔵だろう。これは古今独歩といっていい。(略)武蔵は強い。その強さは神にもっとも近づいた人間というべきだが、しかし武蔵の芸には重大な欠陥がある。なんだとおもう。(略)武蔵の芸が、後継者を産まなかったことだ。この人は、うまれつき超凡の気魄があった。その気魄を剣に注ぎ入れて独自の芸風をつくりあげたが、しかし後進にとっては、武蔵のような異骨を備えない限り、その芸に近づけない。いかにこあれの五輪書を読んでも武蔵にはなれない(略)その点、伊藤一刀斎はまったく別の剣客である。一境地をひらくごとに一理を樹てた。剣に、理を重んじた。理があってこそ、万人が学ぶことができる。

 竜馬の兄弟子にあたる伝兵衛が、飲みの席で「宮本武蔵と伊藤一刀斎の剣の道の違い」について語っています。どちらも天才であることは百も承知ですが、こう比べてみると、少なくとも剣を究めるという道においては、伊藤一刀斎の成したことの方が社会に価値があったと言えそうです。

 一方で、どちらが大切だとも言え切れない側面もあります。というのもこの節にふれたとき、私は「ヒカルの碁」という漫画を思い出しました。その中で、碁に携わる多くの人の手によって何千年、あるいはそれ以上の年月をかけて「神の一手」に近づいていくという描写があります。ここでは、能力の優劣はあまり関係なくどちらも大切だと言っています。「劣」も「優」が「優」となるために何かしらの影響を及ぼしているはずだからです。それで言うと、どちらも互いに何かしら影響しているという意味で大切な存在と言えます。

 このように考えると、どれも正解ということになってしまい、社会のために自分がどうお役に立てば良いかわからなくなります。しかしここでの一つの気づきとしては、やはり一度、社会に与える価値というのを短期的にではなく長期的なスパンで考えてみるということです。そしてよく考えた上で自分が正しいと思ったことをなそうとする、結局それしかできないのかもしれません。正しさや優劣というものは結局はこの世が決めることです。ですので、社会のためにどうあるべきか、そういうことを問い続け行動し続けることが最も大切だと感じました。


③自分の体験を通して考えられているか

万事、見にゃ、わからん、というのが、学問嫌いの竜馬が自然と身に付けた主義だった。

  武市が「長州!長州!」と言っているのを横目に、自分はその意見を鵜呑みにする前にまず長州を見てこなければ話は始まらないといって竜馬は長州へと向かいます。

 「君たちはどう生きるか(前記事ー0004)」や「知的複眼思考法(前記事ー0001)」でもあったように、やはり他の人の意見や世間の流れを鵜呑みにせず自分の経験を通じて物事を考える必要があるのを改めて感じます。

 何か大事をなすためには、この竜馬の例のように、物事を常識だけで安易に捉えず、本当にそうなのかということを自分で一から考えることが必要なのかもしれません。少なくともこのような本をわずかながら読み重ねてきてそう感じました。

 

竜馬がゆく〈2〉 (文春文庫)

竜馬がゆく〈2〉 (文春文庫)