コペルくん的読書日記

誰かと本の感想を語り合いたい寂しめなコペルくんです

君たちはどう生きるか(吉野源三郎、1982)★★★★★ー0004

僕、ほんとうにいい人間にならなければいけないと思い始めました。叔父さんのいうように、僕は、消費専門家で、なに一つ生産していません。(略)しかし、僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を一人この世の中に生み出すことは、僕にでも出来るのです。そして、そのつもりにさえなれば、これ以上のものを生み出せる人間にだって、なれると思います。

 吉野源三郎氏による、「人生いかに生きるべきか」について考えさせられる一冊です。中学生の主人公コペル君がさまざまな経験を通じて精神的に成長していきます。本書は、一つ一つの経験をコペル君の視点で物語として紡いだ後、叔父さんの日記の中でその経験に解釈を加えていくという構成になっています。驚くことに本書は、この岩波文庫のカバーからは想像できない程平易な言葉で紡がれています。これ程読みやすいのは、若者にぜひ読んで欲しいという意図があるからなのでしょうか。

コメント

「どう生きるべきか。生を全うするためには、何を考え、どう行動したらよいか」そういうことのヒントを得ようと思い拝読しました。ビジネス書ばかり読んできたのでこの小説のスタイルが新鮮でした。普通に面白くて楽しめたのでオススメです。感銘を受けた点を以下に列挙します。特に後悔のくだりが好きです。

①体験から自分で考えよ
②「後悔」ということをどう捉え、どう対処していくか
③心は正しいだけでなく、強くもあるべき
余談:「あだ名をつける」ということ


①体験から自分で考えよ

世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、言われた通りに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば(略)、それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。(略)肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。そうして心底から、立派な人間になりたいという気持ちを起こすことだ。(略)いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。

 つい知識偏重になりがち、「何が正しいのか」という答えを探しがちな私にとって、とても響く一節でした。リアルでも読書等でも何でも構わないけれど、その体験を自分なりに棚卸しをする時間を設けるべきだというメッセージとして受け取りました。読書による知識・擬似体験のインプットと実地での経験、この二つは両輪であると思いますので、どちらも本気で取りに行って、そしてしっかり棚卸しをして立派な人間を目指します。


②「後悔」ということをどう捉え、どう対処していくか

あの石段のことでは、損をしていないと思うの。後悔はしたけれど、生きてゆく上で肝心なことを一つおぼえたんですもの。

 小さいころコペルくんのお母さんは「石段事件」という、後悔の代名詞とでもいうべき体験をしています。大きな荷物を持ったおばあさんが石階段を必死で登っているときの話です。お母さんは親切心から声をかけようか散々迷いましたが、気はつくと既におばあさんはその石段を上まで登りきっていて、しまいには振り向いたおばあさんと目が合い気まずくなってしまった、そういう事件です。それを今振り返ってみると、たしかにそれはそれは悔やまれることだったけれど、その後同じようなケースに出くわしたとき、そうならないよう行動できたという意味で、結果価値のある後悔だったと話しています。後悔をそういう風に捉えられたら、もっと生きやすくなるはずです。

 しかし、そうは言うものの、感情が後悔に押しつぶされてしまうことだってあります。訳もわからず何もかも見えなくなってしまうときがあります。そのようなとき、私たちはどのように対処すればよいのでしょうか。

話してゆくうちに、コペルくんは、胸の中につかえていたものが、ようやく流れ出してゆくのを感じました

 まずは、このように誰かに話して心を落ち着けることが良さそうです。ですので、ご迷惑をおかけすることになるかもしれませんが、私はまず親友や信頼出来る上司の方たちに、勇気を出して頼っていきたいと思います。

 しかしこれは主に気持ちの整理や、効果的なアドバイスをもらうのが目的です。結局その困らせている問題に、私たちはどのように向き合っていけばよいのでしょうか。

ここは勇気を出さなけりゃいけないんだよ。どんなにつらいことでも、自分のした事から生じた結果なら、男らしく耐え忍ぶ覚悟をしなくっちゃいけないんだよ。(略)勇気を出して、他のことは考えないで、いま君のすべきことをするんだ。過去のことは、もう何としても動かすことはできない。それよりか、現在のことを考えるんだ。いま、君としてしなければならないことを、男らしくやってゆくんだ

 アドラー心理学でいう「課題の分離」の概念に近いですね。「過去に犯してしまった過ちに対して、現在の自分が最大限の誠意を持って応えることに注力する。その結果嫌われるかどうかはわからないけれど、それはもう自分にはどうにもできない」
 さらにここで大事なのは、適当に言い訳をしてうやむやにしないということです。結局それによって成立する信頼関係は本物ではなくなるからです。それにその嘘に対するうしろめたさもついて回るようになってしまいます。これには覚えがあるので納得です。(factは?と問われそうですが、ここでは「体験」から考えようとしています)


③心は正しいだけでなく、強くもあるべき

よい心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけをいかしきれないでいる、小さな善人がどんなに多いか(略)。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多いのだ。

 とても耳が痛いです。稲盛さんの「生き方」にも書いてあったのですが、やはり自分を追い込み精神を鍛えあげることが必要みたいです。そうしないと自分の身の回りの人も不幸に引きずり落としてしまう、それは何としても避けたいです。


余談:「あだ名をつける」ということ

コペル君が、友達からあだ名の由来をたずねられると、なんだかうれしそうな顔をする

 この作品の中では、「あだ名」をつけるというシーンが多く見られます。コペル君の由来はネタバレになりますので、ぜひ本書を読んで頂きたいと思います。笑
 結論から言うと、「あだ名」をつける文化って素晴らしいと思ったのでぜひ実生活にも取り入れようと思いました。今思うと、以前の職場ではあだ名で呼ばれていて、なんだかそれは自分のことを受け入れてくれているようで、とても嬉しくなったのを覚えています。なので今回改めてあだ名をつけるメリットについて考えてみました。

 ■あだ名をつけるメリット
 ・親しみがわき、距離が近づく
 ・良い感じの由来だとそれだけで嬉しい(コペル君はまさしく良い例です)
 ・相手のことをしっかり見るようになる(名前とかではなく性格等を反映する場合)
 ・相手にとってもそれが自己分析になる(名前とかではなく性格等を反映する場合)
 ・自分のセンスも磨かれる(名前とかではなく性格等を反映する場合)

 名前をもじっただけのあだ名でも十分嬉しいと思いますが、さらにキャラクターを反映させたあだ名をつけられるようになると、よりその人間関係は良いものになるという気がしています。とにかくこれも実践しようということで、出来るだけあだ名をつける習慣を心がけていきたいと思います。

 

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)